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PTSDの歴史と現在地
2025.07.012025.07.02
心的外傷後ストレス障害(PTSD)
精神医学における文化とトラウマ概念の交差点
精神的外傷、いわゆるトラウマに関する理解や診断基準は、医学的知見の蓄積だけでなく、社会的・政治的文脈の影響を強く受けて変化してきました。現代において広く知られるPTSD(心的外傷後ストレス障害)もまた、その背景には特定の歴史的・文化的状況が深く関係しています。
PTSDの登場と社会的背景
PTSDが精神障害の診断マニュアル(DSM)に登場したのは1980年のDSM-IIIであり、当時はベトナム戦争から帰還した兵士たちの深刻な精神的後遺症に対する補償や理解を目的としていました。しかしその後、PTSDは戦争体験に限らず、日常生活における事故や犯罪、災害など多様な出来事により発症しうる共通の反応として認識されるようになりました。
AndreasenはPTSDを「多くの患者にとって必要不可欠な診断である」と位置づけており、その重要性は臨床現場でも支持されています。なお、PTSDに先行する概念としては、Kraepelinが提唱した「驚愕神経症」などがあり、これは明確な病理学的証拠がなくとも患者の症状を捉えようとする試みでした。
歴史的トラウマ概念とその社会的文脈
19世紀から20世紀にかけて、精神医学は診断の枠組みだけでなく、患者の扱い方においても大きく揺れ動きました。トラウマに関連する診断もまた、科学的な進展のみならず、文化的・制度的な影響を色濃く受けています。
鉄道脊髄症:近代の象徴としてのトラウマ
産業革命の象徴であった鉄道事故に関連して、Erichsenは「鉄道脊髄症(railway spine)」を提唱しました。明確な身体的外傷がないにもかかわらず精神的変調を訴える乗客に対し、脊髄への衝撃が原因であるとする見解が受け入れられましたが、後に医学的な証明の不十分さや補償制度との関連から批判も生まれました。
外傷ヒステリー:神経機能への注目
フランスのCharcotは「外傷ヒステリー」を提唱し、脳や神経の器質的病変ではなく、機能的な障害として症状を捉えました。彼の考えでは、出来事そのものよりも個人の感受性が発症に大きく関与しており、弟子のBabinskiはこれを「暗示による神経反応(pithiatism)」と位置付けました。
外傷神経症:器質的病因論の台頭
ドイツのOppenheimは、事故や災害後に発症する症状群を「外傷神経症(traumatische Neurosen)」と定義しました。この理論は国家による補償制度とも結びつき、当時のドイツにおいては財政的負担の要因として政治的にも注目されました。特に戦争後、多数の患者が補償を求めて診断を受けようとしたことで、国家的には「戦争で精神を病むなどありえない」とする風潮が強まりました。
砲弾ショックと戦争神経症
第一次世界大戦中、イギリスの心理学者Myersは、戦場における兵士の精神的変調に「砲弾ショック(shell shock)」という名称を与えました。戦闘の物理的衝撃ではなく、逃げ場のない状況や仲間の死と向き合う日々が原因とされましたが、この診断は軍によって公式には認められず、Myers自身もその後は語らなくなりました。
ドイツ精神医学とトラウマ否認の時代
第一次大戦後のドイツでは、愛国心の高揚と国家の財政的理由から、戦争由来の精神的後遺症を公的に認めることは困難でした。第二次大戦後には強制収容所に関するトラウマが表面化するものの、精神医学の分野での議論は低調でした。その背景には、ナチスへの協力という加害の歴史や、自国兵士への加害責任を問う声の存在がありました。21世紀に入り、ようやくトラウマへの関心が高まり、ドイツ連邦軍におけるPTSDの診断件数は2006年から数年で急増しました。
PTSDをめぐる現在の課題
PTSDの診断は、あくまで明確な「トラウマ的出来事」の経験を前提とするものであり、その発症には個人差が大きいことが知られています。たとえば日本では、生死に関わる経験をした人の割合は60%にもかかわらず、PTSDの有病率は1.3%程度にとどまります。つまり、トラウマ体験があっても、その大多数はPTSDに至らないのです。
また、診断の拡大に対しては臨床的な慎重さが求められます。患者がトラウマ的経験を語っただけでPTSDと即断するような誤解は危険であり、被害の存在証明として診断を利用することも望ましくありません。
複雑性PTSDと診断の未来
近年では、持続的・反復的な被害体験により生じる「複雑性PTSD(C-PTSD)」の概念も議論されています。いじめや差別など、従来のトラウマの枠を超えた経験も含める動きがありますが、こうした診断の拡大が社会的要請によって生じている側面もあり、慎重な見極めが必要です。複雑性PTSDの導入には数十年の議論が費やされたように、今後も文化や社会背景を踏まえた柔軟で科学的な運用が求められます。
野村紀夫 監修
医療法人 山陽会 ひだまりこころクリニック 理事長 / 名古屋大学医学部卒業
保有資格 / 精神保健指定医、日本精神神経学会 専門医、日本精神神経学会 指導医、認知症サポート医など
所属学会 / 日本精神神経学会、日本心療内科学会、日本うつ病学会、日本認知症学会など
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